|
島田 紳助(しまだ しんすけ、1956年3月24日 - )は、日本の元お笑いタレント、実業家。コンビ時代は紳助・竜介のボケ担当。本名、長谷川 公彦(はせがわ きみひこ)。京都府京都市南区出身。 1974年から吉本興業(よしもとクリエイティブ・エージェンシー)に所属。2011年に芸能界を引退。 == 略歴 == === 芸能界入りまで === 父親が国鉄職員(南満州鉄道の職員歴もある)の家庭に生まれ育つ。『松本紳助』で紳助本人が語ったところによると「鳩みたいに真面目で温厚な性格で、自分が警察に補導されても『話し合いで解決できる』と言って一度も激怒しなかった」とのこと。 中学生の時は学校の窓ガラスを割ったり、教室で盗品を売りさばいたりしており、高校生の頃に車上荒らしで補導されて少年鑑別所に送致された経験がある。10代頃から広島に拠点を置くヤクザである波谷守之に憧れていたという。少年時代は暴走族であったと語っており、現在も当時の話をしばしばネタにしている。高校のとき教師から叱責されたのを機会に「おもろい不良になろう」と改心(?)する。高校時代のあだ名は、泣きながら熱く語ることから「泣き虫みー君」。高校の三者面談で「公彦君はこの学校のゴミです」と言われたことがあった。また、高校時代に生徒会長に立候補しようとしたところ、教職員一同に「長谷川君、頼むからやめてくれ」と言われたという。後年、芸能界で大成した後に学校へ行くと「君はこの学校の誇りだ」と言われ、それに対して、「ゴミと誇り(埃)やったら変わらへん」と冗談めかして話している。高校時代の担任は宗教の教諭であり、注意する時に叱り付けるのではなく、「インドの偉いお坊さんはな…」と諭されていた。その一方で、「大学を出ないと人生のスタートラインに遅れる」と考えていて、勉強はやっていたという。 10代の頃は大場政夫に憧れ、ボクシングジムに通っていた。1973年には京都府高校フライ級1位を獲得(ただし紳助いわく出場者は3人)。また、料亭に勤めていたことがあり、将来は寿司屋か競艇選手か漫才師かと考えていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「島田紳助」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Shinsuke Shimada 」があります。 スポンサード リンク
|